昭和五十年十一月三日 朝の御理解

御理解第四十四節 「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」


 「神に祭られることを楽しみに信心せよ」と。信心することを楽しみになるような信心にならなければ、神にまつられるということ。ならねばならない。ただ信心をしておれば、誰でも神様にまつられるという意味ではない。この世ではもう仕方がないから、あの世では極楽に行くことを楽しみにというようなものではないということ。それは成程お道の信心によって改式をしておれば、いわゆる霊神として祭ってもらえるのですけれども、そういう意味ではないと思うです。
 神になることを楽しみに、教祖様のお言葉の中に、「この世で神にならずして、あの世に神があるか」というお言葉があります。この世で神、言うならば、この世で極楽のおかげを開かずおいてして、あの世に極楽があるか。霊が極楽に遊んでおる、霊がわれながら自分の霊を拝めれる心の状態をいうのです。ですから、これはいよいよ苦しいから、頼み事があるから拝みよります、参りよりますという信心ではない。
 成程そういうところから入って、信心の本当のところがわかって、信心が身について、心が神に向うて行きよる。言うならば、最近の御理解から言うと、心が神に還って行っておる。ここにも、「人間は万物の霊長であるから」と仰っておるように、人間は確かに万物の霊長であると。その万物の霊長である、その万物の霊長がです、我情我欲に汚れ果てた霊が、霊長どころかもう牛馬にも劣るようなことにさえなって来ておる。
 霊徳一つ現すことが出来ない、狐狸どころではない。例えば蛇とか蛙とかいうような冷血動物ですら、その霊徳を現す。まして人間、万物の霊長であるところのその霊徳を現し得るくらいなおかげを頂かねばならん。霊長としての、言うなら霊をいよいよ清めることによって、万物の霊長としての価値ある人間が出来ることになるのです。
 蛇なんかでもです、大水やら大雨が降る、大水が入るということになると、もうちゃんとそれを予知しておる。だが蛇が高上りしたらね、木に登ったりすると、あ痛、これは近い内に大雨が降るな、大水が入るか知れん、と言うくらいですね。というようにです、これは一つの降る照るのことはです、蛇にはわかるということになるのです。
 まして人間万物の霊長だ、降る照るのことすらわからないような行き方ではね、あなたは霊長としての値打ちを穢し果てておるのだから、それを清めて行くことになると、降る照るどころではない、それこそ教祖様ではないけれども、天に親戚が出来た、親類が出来たと言われるような結構なおかげの世界があるのです。開けて来るのです、ね。やはりお徳を受けると、言わばいろんなことがわかる。それは霊長としての値打ちを発揮することの信心をしたからです。それは霊を言わば清めて行ったからです。
 ことある度に、いよいよ信心とは改まりが第一、信心とは本心の玉を研くという、そういう行き方をして行く内に、霊長に還って行く。霊長としての、言うならば、神の氏子としての、生神に還って行くという、そういう働きを繰り返さして頂く。そこへね、信心の有難さ、いや、楽しさが出来て来る。
 自分がわかる。自分の心が有難うなって来る。もう本当に、まあ、不平不足ばっかり言うておったその同じ事柄をです、霊が清まって来るとね、それが本当に有難いことになって来るから不思議です。涙の出るほど悲しいことだ、歯がゆいことだというようなことがです、有難涙がこぼれるごとなって来るから不思議です。霊が清まって来る。ああ、あの人は鬼のごたる人、蛇のごたる人と思うておった人が、生神、生仏のようになるから不思議です。
 だから自分の周囲に、仏様やら神様やらいっぱいなるから、その中に取り囲まれたごとなるから、その中におるから、その人は極楽ということになるのです。ああ、もう信用はおけん、あん奴はろくな奴じゃないというのが、自分の周囲にいっぱいおるなら、あなたは今、地獄だということになるのです、ね。
 もう信心はね、それが一つ一つ言うならば悪人が善人に変わってくる。鬼のごたる人間が神様に見えて来る。仏様に見えて来る。事柄でもそうです。困ったことだと思うておったことが、本当に押し頂いておらねば居れないような、事柄に変わるのじゃない、こちらの方がそうなって来る。
 だから楽しいのです、信心は。言うなら我と我が心を拝みたいような心が開けて来るから楽しい。私はね、死したる後に神にまつらるることに、信心せよというのは、自分の心がいよいよ拝めれるようになるという。そこのところが有難うしてならん。楽しゅうしてならん。信心の教えをいよいよ頂かしてもらわにゃおられん。実行しなければおられんということになって来るのです。
 確かに教祖の神様が、「この世で神にならずして…」と仰る。私共がね、なら生神になってしまわんならんということではないですけど、神に向かって還って行くというその過程、そこには勿論、私は、まあ神様にもピンからキリまでありますよね。けど神様へ向かって一歩でも進んでおるという生き方を身につけておけよという行き方なんです。
 よく苦労人というか苦労した人、それが本当に、私にしては一生、小説を書いてよかごと、まあ奇なるというかね、まあいろんなところを通って来たと、いうような人があります。言うならば、その難儀を続けて来た。様々なところを通って来た。人生の様々な、それこそお芝居か物語のように不思議なところを通らせて頂くもんです。
 今日は、私はそのことについてね、劇的シーンを繰り返しながら神に還って行くというところを頂きました。劇的シーンをね、繰り返しながら、言うならば神に還って行く。そりゃまあ私なら私のことを、一生のことを思うてみると、本当にあの劇的シーン、いわゆる名場面がたくさんあるです。
 生まれたとたんに、椛目には三つ子が生まれたげなと言うので、当時の福岡日日新聞の記者が二人やって来たそうです。それは、私方の母がずーっと流産しておって、三人目に神様に御信心を頂いて、お願いをして、三人目にようやく取り止めたというそのことが、それが枝に、葉になってから、椛目には三人子が出来たげなと、三つ子が出来たげなということになって、新聞社がやって来るというような、もう本当に生まれたとたんから、何かそこにそういうものを含んでおるような感じがする。いわゆる問題を含んどるわけです。
 生まれて六十日目には、もう私は火の海の中にあった。母がただ添い寝をして、寝るつもりはなかったんでしょうけれども、電気がないから提灯を枕元につけて、蚊帳の中で寝んでいる内に寝てしもうた。提灯が倒れて、蚊帳についた。それでびっくりしてから、もうびっくり仰天ですよね。もう子供のことよりか、火事になること、蚊帳の方を下ろしよる内に、私はそれこそ体全身、それこそ真っ黒焦げのような状態になっておった。ちょうど隣に居りました叔母が駆けつけて、御神前にお供えしてある御神酒どっくりをそのまま口に注いで、そして黒焦げになっとるような状態の私に頭からパーっと御神酒を吹きかけたら、もう体中から黒ぶすぼりが出たと言われとります。母は六十日間もう全然寝ずに、抱いとかねば寝ませられないものですから、布団によりかかったまま六十日間通したということです。
 五歳の時には疫痢で、もう医者も難しかと言われるようなところを辿らせて頂いて、母と叔母が草野の病院から、善導寺の約一里余りのところを、もうずーっとお百度参りのようなこと。叔母が帰って来ると母が参る。母が帰って来ると叔母が参るというように。神様からのお知らせも、先代が頂かれたのは、「もうこれは寿命じゃから諦めにゃいかん」とまで言われた。
 親先生が御取次して下さったら、蘇鉄が枯れ上がってしまうところを頂かれた。「だからこれはもう難しい」と言われた。それでも助けたいの一心で、又、お百度参りのような信心を続けられて、何回目かにです、また御祈念をして下さった時に、枯れ上がった蘇鉄の芯から芽が出てくるところを頂かれて、親先生がたいへん喜ばれた。「大坪さん、あんた達の一心が、こりゃ総一ちゃんの命ば取り止めるばい。そりゃ、いっちょ一生懸命信心せにゃでけん」と言うておかげを頂いた。
 それを聞いた叔母が、もう食べ物なんか全然与えられなかったのですが、叔母が御神飯を一つおかゆさんに炊いて、私に食べさしてくれた。翌日は二つ御神飯を。その翌日は三つというようにです、もう叔母の顔を見ると食べたいから、こうやって拝みよったそうです。勿論医者には内緒です。そしてそれこそ、濡れ紙をはぐようどころではなく、本当にビックリするようにおかげを頂いて、ない二度目の命を助かっております、ね。生まれて六十日目にはもう焼け死んだと言われる程しの大火傷をしておる。
 まあ、それから長ずるに従って、まあ、言うなら劇的シーンとでも申しましょうかね、もう様々な意味合いであります。その劇的シーンを一つ一つ神様のおかげで、神様のおかげでと通り抜けて来ておる。そして言うならハピーエンドに終わって行くに違いないと思います、私の一生は。
 そして様々ないじめて、いじめて、いじめ抜かれるところも通り抜かせて頂いた。これほど信心しよるのにどうしてこのようなことが起こるであろうかというところも通り抜かせて頂いた。仕事の上に、お商売の上に、人間関係の上に、そして段々人が助かることになって来た。
 自分で今度、肝心要の親教会との問題がそれこそ劇的でした。私の場合はそういう中を繰り返して行く内に、言わば有難い方へ有難い方へとおかげを頂
 「て来た。劇的なシーンを繰り返して来ながら、神に還る精進をさせられて来たということが本当でしょう。
 吾ながら自分の心の上にです、本当に信心ちゃ、まあ、昨日の御理解で皆さんに聞いて頂いとるように、こんな素晴らしい信心があるだろうかと、自分で自分の心に合掌しなければおられんような、段々育って来ておる。正に楽しみに信心させてもらわなければおられないことになって来た。
 私はここにね、「神になることを楽しみに信心せよ」ということは、金光様の御信心しとれば、神様になれるということではない。神様になる手立てというものを作っとかねばならん。そして死後、言うならば霊の世界に入っても、やはりそれを繰り返して行くことだ。「生神とはここに神が生まれるということであって」と仰せられるのですから、自分の心の上に有難いという心が育つ、その心を育てて行くということは信心なのです。
 苦し紛れの信心から段々一年一年有難うなり、楽しうなり、吾が心が神に還って行くということが、万物の霊長としての値打ちが段々出来て来る。天地が私のために自由になって下さる程のおかげが受けられる。今まで、かつてそんな不思議な世界があるだろうかと思っておりましたけど、私自身、その不思議で不思議でたまらん世界に一歩足を踏み込んでの実感する。これはまだ、限りがない、私が頂いておる、わかっておる信心はほんの序の口、これからその限りのない不思議な世界に入って行けれる。まあいよいよもって、神にまつられることを、楽しみの信心をさせて頂いておることになる。
 皆さんの場合でも信心されるようになって何年、又は何十年という人があります。様々なその間には問題があった。けれども不思議で不思議でたまらんおかげを頂きながら、そこを乗り越え乗り越えして見えとられるでしょう。神様のおかげと思わにゃおられんというおかげの中に、おかげを頂いて来られたでしょう。いわゆる劇的なシーンを繰り返させて頂きながら神に還っておられる様子です。それが確かなものになって来る。確かなものに、霊長としての値打ちが出来てきよるという自覚というかね、そういう実感がなからなければ、楽しいということにはなって来ません。
 私のような人間が、私の心が段々信心するようになったら、我と我が心を時々拝めれることのある自分を発見する時に、信心がいよいよ有難いもの、楽しいもの。いよいよそれを本当のものにして行かねばならんという、心はいよいよ募って来るばかりでしょう。そこに信心はいよいよ楽しいものになる。
 この世では仕方がないから、あの世で極楽へ行く。この世で信心しよりゃ、あの世では神様に祀られる。そういう意味ではない。私共の心が、本当に「信心とは我が心が神に向かうのを信心というのじゃ」と言う信心とは、持って生まれた時に、すでに生神としての、神の氏子としての値打ちを頂いとるのだけれども、その後において我情がつき、我欲がつき、垢がたまりたまって、人間の面しとるだけで、心はそれこそ人間の性が変わってしまって、もう我情我欲ばかり強くなって、人間になり果てておる。それこそ狐狸にさえも劣るような人間になり果てておる。その証拠には降る照ること一つさえわからんではないか。蛇ですらわかるのにね。
 だからそこのところのです、言わば霊長としての値打ちがいよいよ発揮出来れる、私は、手だてを信心と言うと私は思います。我が心が神に還って行くことがです、しかも劇的シーンを繰り返しながら、その都度、都度に、神様のおかげをおかげとわからしてもらう。いよいよ有難うならせて頂くことに精進をさせてもらわねばならん。どうぞ信心が楽しうなる、そういうおかげを頂きたいものですね。どうぞ。